「観念」が世界を創る。
同じできごとが起きても、人によって受け取り方はずいぶんちがいます。
たとえば、
作った資料を上司に見せたとき、
「この資料のここを直すともっとよくなると思うよ」
とアドバイスをされたとします。
これを、
「わたしが作った資料を否定された」
と思う人もいれば、
「わたしの資料がもっとよくなるためのアドバイスをくれた」
と思う人もいるでしょう。
起きているできごとは同じなのに、どうしてこんなにものごとの捉え方がちがうのでしょう。
その理由は、
その人が持っている「観念」が、それぞれちがうからなのです。
ICCMでは、
子どもの頃に経験したことや、周囲の人の反応などから身につけた無意識のルールを、
「観念」と呼んでいます。
観念は、自分でも気づかないうちに、できごとの受け取り方に影響しています。
だから、人は同じ世界を見ているようでいて、実はそれぞれ少しずつ違う世界を体験しているのです。
この記事のタイトルにある「観念が世界を創る」とは、
考えたことが外の世界に突然現れたり、思考が現実を魔法のように引き寄せたりする、という意味ではありません。
自分が体験している世界の見え方や受け取り方が、持っている観念によって変化する。
ここでは、そんな「観念」のしくみについてお話しします。
観念とは?
観念とは、自分の中で無意識に
「そういうものだ」
と信じているルールや思い込みのことです。
たとえば、
- ちゃんとしていなければいけない
- 優秀でなければいけない
- 役に立たなければいけない
- わがままを言わず従順でなければならない
- つらくてもがまんするしかない
- 人に助けを求めてはいけない などなど。
「〜しなければならない」「〜してはいけない」というルールだけではありません。
- 高学歴・高収入に価値がある
- お金がないのは恐ろしいこと
- 人は信用してはいけない
- 返事がないのは嫌っている証拠
- わたしは愛してもらえない
のように、
「人とはこういうもの」
「こういうことが起きたら、こういう意味」
「わたしはこういう人間」
と、自分・他者・世界を理解するための前提になっているものも含まれます。
わたしたちは普段、
自分がどんな観念を持っているのかを、ひとつひとつ意識しながら生活しているわけではありません。
子どもの頃からの「あたりまえ」になっているので、
観念ではなく事実そのもののように感じていることも多いです。
観念はどうやって身につくの?
観念は、いわゆるトラウマ体験のような、
大きな傷つき体験によってだけ身につくものではありません。
子どもの頃に自分が直接経験したことをはじめ、
身近なおとなの言動を見たり、家庭の中の暗黙のルールを感じ取ったりしながら、
少しずつ形成されていきます。
失敗したときに繰り返し強く叱られれば、
「失敗してはいけない」
という観念を持つかもしれません。
家のおとなたちが、いつもよその誰かの陰口を言っているのを聞いていれば、
「人には表と裏があるものだ」
という観念を持つかもしれません。
お父さんが、「あの人は○○大学を出てるから立派だ」などと言うのをしょっちゅう聞いていれば、
「学歴が人の価値を決める」
という観念を持つかもしれません。
こんなふうに、
家庭の中のごくありふれた風景の中で、
その子なりに受け取りながら、観念は少しずつ形づくられていきます。
そして、たとえ同じ家庭で育ったきょうだいであっても、
同じ観念を身につけるとは限りません。
子どもにはそれぞれ、生まれ持った感受性や特性などがあり、
経験したことや見聞きしたことを、その子なりに受け取るからです。
わたしの講座のお客さまは、ひといちばい感受性の強い方が多く、
「他のきょうだいは平気そうなのに、自分だけが気にしてしまうんです」
なんていう話もよく聞きます。
そんなわけで、ICCMでは一律の方程式のように、
「こんな経験をした人は、必ずこの観念を持つ」
とは考えていません。
「こういう家庭に育ったからこういう観念があるはず」
などと決めつけてしまうことが、かえって、癒しの遠回りになってしまうこともあるので、
じっくりと向き合いながら、その人がどんなルールを身につけてきたのかを丁寧に見ていくことが大切です。
観念は解釈のフィルタ
では、わたしたちが持っている観念は、
実際にどのように、できごとの受け取り方に影響しているのでしょうか。
先ほどの、上司から資料についてアドバイスをされた例で考えてみましょう。
アドバイスを受け取る人が、「わたしはダメな人間だ」という観念を持っていると、
「こんなことでアドバイスを受けるなんて、わたしは本当にダメだな」と自分を責めるような解釈をすることでしょう。
一方で、アドバイスを受け取る人が、「人はみんな意地悪だ」という観念を持っていると、
「この人はわたしにイヤなことばかり言う」と相手を責めるような解釈をすることでしょう。
同じ「アドバイスをされる」というできごとなのに、
その人が持っている観念によって、できごとの意味が大きく変わってくるのです。
観念は、いわば、
その人が世界を見るときのフィルタ。
観念というフィルタを通して、
「わたしは本当にダメだな」
「あの人はイヤなことばかり言う」
などと解釈をしている本人は、これを「自分なりの解釈」だとは思っていません。
ウソでも盛りでもなく、
今目の前にある現実が、本当にそのように見えているのです。
だから、
人から「そんなことないよ」「そういう意味じゃないと思うよ」と言われても、
気休めを言われているようにしか思えないのです。
つまり、今あなたが体験して「こういうことだ」と解釈をしているひとつひとつは、
あなたのフィルタを通して見えている世界です。
あなたが子どもの頃から身につけてきた、あなただけの観念という目に見えないフィルタが、
あなたとできごとの間にあって、無意識のうちにできごとをゆがませているのだとしたら・・・?
もしそのフィルタが無くなって、ものごとをあるがままに見られるようになったら、
そこにはどんな世界が広がっているでしょうか?
観念は本来自分を守るためのもの
ここまでの解説を読んでくださった人の中には、
観念って、なんて邪魔なものなんだと思った方もいるでしょう。
観念があるから、ものごとをあるがままにとらえられず、
わたしたちの日常をややこしくしてしまうのだとしたら、
たしかに、そんなものはさっさと取り除いてしまう方がいいのかもしれません。
でも、誤解してほしくないのは、
観念そのものは悪いものではないということです。
あなたが身につけてきた観念は、
少なくとも、幼いあなたにとっては、大切な「お守り」だったはずです。
親や周りのおとなたちに、愛されるため、
認めてもらうため、必要としてもらうため、注目してもらうため、嫌われないため、
置かれた環境の中で安全に生きていくため。
目的はそれぞれですが、
でも、子どもだったわたしたちはみんな、
そのときにできる精いっぱいで、がんばってきたはずです。
だとしたら、おとなのあなたにとっては不要なものでも、
子どもの頃のあなたにとっては、必要があって身につけたものなのです。
それをインナーチャイルドは今も必死に握りしめているのですから、
邪魔者扱いして、「気にしなくていい」「考えても仕方がない」と自分に言い聞かせるだけでは、
観念をゆるめることはできません。
「今日までずっと、この観念を健気に大切に守り続けていたんだな。」
そんな優しい視点に立って、今まで必死に生きてきた自分を愛おしく思えたとき、
インナーチャイルドははじめて癒されます。
そして、
「もう自分ひとりで、この観念を握りしめて身を守り続けなくても、
今はおとなの自分が守ってくれる」とわかって、
観念を握りしめている手をゆるめることができるのです。
ICCMのインナーチャイルドケアでは、そんな優しい視点を常に大事にしています。
観念が緩むと、世界が変わる
インナーチャイルドとの信頼関係を育み直し、観念がゆるんでいくにつれ、
あなたが見ている世界にも少しずつ変化が訪れます。
アドバイスを批判だととらえていた人が、「わたしのために言ってくれてるのかも」と思えるようになったり、
失敗を恐れてチャレンジできなかった人が、「うまくいかなくても大丈夫」と思えるようになったり。
無理にポジティブにとらえようとしなくても、
極端な自己否定や他者批判にとらわれることが減っていきます。
状況は変わっていないのに、あなたの受け取り方が変わるだけで、
世界はうんと優しくなります。
「生きやすくなる」というのは、いいことばかりが起こる世界に行くことではありません。
超ポジティブで決して折れない、屈強なメンタルを手に入れることでもありません。
あなたを縛っていた観念がゆるみ、起きたできごとをひとつの解釈にとらわれず、
広い視野で柔軟に捉え、しなやかな心で日々を過ごせるようになることです。
観念が緩むことで、同じ世界にいながら、これまでとは違う世界を体験できるようになる。
これが、ICCMの考える「観念が世界を創る」ということなのです。