「わかってほしい」からはじまっている ~最近の物騒なニュースを見て思うこと~
最近特に物騒なニュースが多いですね。
車で児童を無差別にはねた事件、駅で大学生が切りつけられた事件、校舎内で保護者の知人が先生に暴行した事件・・・
いつどこで誰が遭うかわからない事件のニュースを聞くと、たとえどんなに気をつけていても、防ぎようがないことは起こるのだろうなと思います。
被害に遭われた方が本当に気の毒なのはもちろんのこと、加害者の人たちがどうしてこうも強い怒りを持ってしまうのかというところを考えていかないと、この先の日本はどんどん危険な場所になっていくんじゃないかという気がしてなりません。
わたしはこの仕事をしていて、たくさんの心に傷を負った方とお話をします。
その傷は、明らかにわかりやすく大きなものもあれば、人から見たらたいしたことがないような傷だったりもします。
でも、その奥に続く傷の深さを測る方法なんてないですし、そもそも身体の痛みの感度が人それぞれ違うの同じく、心の痛みの感度も高い人と低い人がいて、傷が深いから生きづらいとか、浅いから大丈夫とか、そんな単純なことでもないんです。
心に傷を負った人の内側から聞こえてくる声はさまざまですが、どのインナーチャイルドもみんな、「わかってほしい」と思っています。
心が痛いこと、さみしいこと、苦しいこと。
本当は強くなんかないし、本当は甘えたいこと。
それを最初は「お母さんにわかってほしい」と思っています。
でも、それが叶わなかった人は、「わかってほしい」の矢印を他の人に向けます。
上司や同僚に認めてほしい。
恋人に寄り添ってほしい。
友だちに共感してほしい。
カウンセラーに癒してほしい。
でも、そういうことさえも叶わなかった人(孤独な人)は、「わかってほしい」という気持ちごと封印して、能面のような顔になっていってしまうか、はたまた「わかってほしい」の矢印を社会に向けることになります。
社会に向けるといっても、交差点の真ん中で「わかってよ!」って叫んだところで誰もわかろうとなんてしてくれないから、それを怒りのエネルギーにして、みんなが振り向いて注目してくれそうな行動に出てしまう。
こうして悲劇は生まれるのでしょう。
もちろん、実際にはこんな簡単な話じゃないだろうけれど、でも、順番としてはこうなんだと思います。
わたしの場合は幸い、周りの人に矢印を向けまくって、うざがられて敵だらけになって、「このやり方じゃダメなんだ」って気づけました。
そして、インナーチャイルドケアにたどり着くことができたからよかったけれど、
もしあのまま気づかずにいたら、「わかってほしい」がもっと増幅して、もっと大きな失敗をやらかしていたかもしれない。
もしくは、能面のような顔で、死にながら生きていたかもしれない。
もちろん、無差別的に加害をしたいなどと思ったことはないけれど、「わかってほしい」がその大元だとすると、こういった事件もまったくの他人事だなんて言えないんです。
だからこそ、わたしは、インナーチャイルドケアをひとりでも多くの人に届けたいと思っています。
インナーチャイルドケアは、「自分で自分のお母さんになる術」。
「わかってほしい」を他人や社会に向けることなく、自分の中で満たすことができます。
わたしの活動は、直接的な犯罪抑止にはならないかもしれないけれど、ひとりでも多く「自分で自分のお母さんになる術」を身に着けた人をこの世に増やすことができたなら、「わかってほしい」というエネルギーが社会的な怒りに変換されることを、少しは減らせるんじゃないかなと思っています。
わたしなりの未来の子どもたちへの平和活動でもあります。
きっとこれを読んでいるあなたの中にも、「わかってほしい」はあるはずです。
それをそのまま放っておけば、いつしか自分や他人を傷つける怒りのエネルギーに変換されてしまうかもしれません。
犯罪じゃなくても、自分の大切な家族や、周りの人を傷つけて、大切なものを失ってしまうかもしれなません。
どうか自分の内側に目を向けて、「わかってほしい」の声に耳を傾けてあげてくださいね。
みなさんが一歩踏み出してくださるのをお待ちしております!